2010年8月19日木曜日

多情多感?

これはもしかしてマリリン・モンローと同様の女性の男性全般に対する愛と不信と復讐を示しているのかもしれません。心理的原因としては幼児期に母親と一緒に父親から捨てられることが考えられます。男性が幼児期に父親と一緒に母親から捨てられる場合もやはり女性全般に対する愛と不信と復讐を示すことがあります。アレクサンダー大王や織田信長にもその傾向が見られます。男性が母親と一緒に父親から捨てられる場合は愛と不信と禁欲を示すことになります。イエス・キリストやレオナルド・ダ・ヴィンチにその傾向が見られます。同様に女性が父親と一緒に母親から捨てられる場合は愛と不信と禁欲を示すことになります。例としてはエリザベス1世や式子内親王が考えられます。捨てられるの意味は心理的あるいは物理的にやむを得ず離れて暮らすことも含まれます。
この小生の仮説が心理学的に正しいかどうかはより多くの例が必要であるとともに両親が円満に子供を育てられない場合にもその子供の可能性は開かれていることが示されていると思います。

2010年8月17日火曜日

資本、ネーション、国家

国家は社会構成体を政治的価値として空間的に支える構造であり、ネーションは民族を歴史伝統的価値として時間的に支える構造であるとすると、資本は商品あるいは生活必需品の交換により蓄積される社会構成体の活動であり、巨大化した銀行資本や産業資本が経済的価値として国家やネーションと同様に構造のように見えたとしてもそれはあくまで活動であり、資本、ネーション、国家を三位一体と考えることは困難です。むしろ資本がネーションや国家を利用したり、あるいは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に資本家が協力したように国家、ネーションが資本を利用するのだと思われます。マルクスの剰余価値説において資本が労働による生産価値を収奪しているように見えたとしてもそれは交換により社会構成体の全体としての有益性が増大していて、信長の楽市、楽座のように経済が進展します。問題は資本が常に労働による生産価値を過小評価してしまうことです。柄谷行人氏の生産様式ではなく、「交換様式」から世界史を見るという視点であれば、資本は生産財蓄積と独占というよりも交換様式そのものであり、交換様式の多様化は資本の多様化であり、その融通性と分散化によって、世界共和国的な国家やネーションの枠組みを超えた構造に進展する可能性があると思います。

2010年8月10日火曜日

交換様式から社会構成体の歴史を見直す

マルクスの資本論は商品価値の中には生産による価値の創造のみがあり、交換による価値は存在しないことを主張していると思います。そして資本は商品の交換によりみかけの価値を付加して、資本の蓄積を行い労働者の生産による価値を収奪すると考えています。しかしながら交換による価値の創造はないとすることは資本論の問題であり、生産による価値の創造と交換による価値の創造が社会に利益をもたらし、社会を構成させていると思います。その意味で柄谷行人氏が「本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことに、現在の資本=ネ-ション=国家を越える展望を開こうとする企てである。」とされていることはとても期待されます。しかしながら資本論から由来された共産主義イデオロギーよりも貨幣経済が始まって以来の資本主義の方が社会構成体にとって有効であることはすでに証明されていると思います。問題は資本がそれ自体として蓄積され、集中化され貧富の差を増大させる方向にしか進まないことです。交換様式の変遷は技術革新の影響を受けているだけであったという結論であったとしても、交換様式の多様化と制度による法的規制により資本の偏在性、集中化が緩和され、融通性、分散化により世界共和国的な方向に進む可能性があります。

フッサールの超越論的主観性

105年前に始まった現代科学においては純粋客観は前提とできず、量子力学の不確定性原理により、主観に影響されない客観はなく、また相対性理論により主観に影響されない絶対空間、絶対時間は存在しないとされています。その意味でフッサールの超越論的主観性が現実や現象とより深く関わり合うための主観の態度であり方策として客観との融合を希求することであれば現代的意味のある概念と思われます。しかし、もし超越論的の意味が世俗や現実を節度無く超えた直感的な主観であれば科学的客観を包み込むことはできず対立してしまう可能性があります。